宮平貝塚     (町指定文化財)  
   本貝塚は霞ヶ浦を望む丘陵の頂上と、斜面を占地し、馬蹄形をなしている。また本町内では最大級のものである。
 本貝塚の地続き丘陵の鞍部には、中世城郭島津城跡があリ、主郭部と堀・土塁などが良い形で残っている。城の歴史については詳しく分かっていないが、最後の城主は宮本内膳の伝えが地元に残っている。本貝塚も在城時代は、防御上重要な位置を占めており、直ぐ近くに鹿島神社が鎮座している。
 廻戸貝塚  
   本貝塚は霞ヶ浦を見下ろす斜面を占地し、縄文時代中・後期のものである。貝種は蛤、あさり、赤にし、かきなごが主であり、土器片や石器類、骨片等も表面に散布している。
 隣接の福祉センターまほろばは中世の防塁廻戸城跡であり、城の遺構は舌状台地の先端部まで続き、十握神社や稲荷社が祀られている。本貝塚も中世には城内とみられる。天正年中廻戸は土岐大膳大夫の臣高野次郎八郎の知行地であった。
 立ノ越古墳群とその周辺  
   本古墳群は、舌状台地を占地し、前方後円墳(柄鏡型)や円墳、群集墳など約20基程顕在している。この古墳群は古代史を知る上で大変貴重である。また本台地の付け根付近には中世の館跡があり、地名「立ノ越」に深く関わっている。その矢端部には250年前祭祀の八坂神社がある。雷ケ浦に注ぐ花室川には柿ノ木橋があり、橋には2つの伝説がある。更に谷津を挟む西の丘陵には戦国城砦と寺跡がある。
 実穀古墳群  
   本古墳群は4基ほど確認され、すべて円墳である。1号墳は直径23m高さ3.6mであり、頂上に石塔台石が埋没している。2号墳は直径18.5m高さ4.5m計測され、頂上には天神様が祀られており、樹高20〜23m、目通り4mの桜の大木が繁茂している。
 また、この古墳群は平国香の墓という伝説があるが、その墳丘は何号墳であろうか、不明である。
 八幡古墳群  
   八幡古墳群は15基ほどあったが、明治以降の開墾で殆ぴ削平される。現存する墳.丘は八幡塚高さ3m、直径28mの円墳とその他2基である。なお付近には羽賀戸古墳群・君島古墳群があるが、当時は一連の可能性がある,、またこの付近は戦記物によると、戦国時代の古戦場になっており土地の人は墳丘をこの時代の弔い塚と呼んでいた。八幡神社は源義家が立寄ったとの伝説があり義家の守り本尊を祭神にして祀ったといわれる。
 雀久保土塁  
  本土塁は北は美浦村、東は江戸崎町に境;を接し、堀を伴った2段比高の土塁である。長さは850mで、高さ約3m幅8mで、深2m幅8mの堀と低土塁を伴っている。
 また、堀の中には数本の畝掘もみられ、中央の虎口付近には、枡形や馬出し跡も微存している。本土塁の構築者は、土岐氏であり信太庄西部よりの侵入阻止防塁群の1つである。構築年代は16世紀末小田原傘下以後である。
 
 実穀の古屋敷
    実穀集落の南方で、乙戸川の東側台地上に中世の集落遺跡がある。西からの登り口は城の虎ロに似ている。李郭やIIの郭に分けてはいないが各屋敷毎に土塁を東側に構え、西方は開けている。特に南端の屋敷の土塁は厳重で西は急角度の崖であり、小領主の構えであるが城主ではなく、城砦集落の有力者であろう。全屋敷数は10数軒であり農業に従事し、"戦場にも出た中世土豪たちであろう。.寛永11年く1634)現在の集落地に移動した。
 池ノ辺堤と弁天の祠
   塙から飯倉に向かう道路の東南に弁天の祠がある。古い絵図ではこの道路を池ノ辺堤といった。この地に、大水で塙と飯倉の農民が困っていたとき弁天の化身である巡礼娘が人柱となり大水を引かせた伝説と、塙城主が大蛇を退治し、不動尊に蛇の霊を供養した伝説がある。
 この辺は晴明川が直角に屈曲する手前で、大きな池があり、この池を埋め開拓するため堤を築く難工事に伴い人柱伝説が生まれ、水田開発に伴って蛇退治伝説が生まれた。
阿見町名所
(貝塚・古墳)
 宮平貝塚  廻戸貝塚  立ノ越古墳群 とその周辺  実穀古墳群
 八幡古墳群  雀久保土塁  実穀の古屋敷  池ノ辺堤 と弁天の祠