金毘羅神社と鈴木村開基碑  
   当社本尊は、寛政9年(1797)若栗村住人が讃岐金毘羅様から勧請し野面に祭祀した。明治12年頃鈴木安武が祭祀し直し、以後村の守神として祭っている。鳥居の蛇は八坪池の埋立で驚いて飛出した蛇と言い伝えられている。
 開基碑は、安武の没後、その開拓の功績を顕彰し建立したもので、彼の経歴と開拓の心魂労苦を刻し、鈴木村創立の由来を後世に伝えんとした内容となっている。明治期この地の開拓史を知る上で貴重な碑文である。
 大 日 塚  
   町域では最も古い大日塚である。寛永2年(1625)記銘の石塔もあるが、上部にある石祠はもっと古い。湯殿山本尊の大日如来信仰は、常陸を中心に近世初期各地で大流行した。湯殿山や羽黒山の修験がこれを広め、村内に古くからある民俗信仰と習合し、五穀豊穣・村内安全を願い、前夜のお籠りと翌日の大日祭があったが、江戸崎町の大日祭を残すだけで衰微した。この塚の西方に、嘉兵衛と狼の伝説で名高い「とげ抜き地蔵」がある。
 木食上人の墓  
   木食とは、現世で五穀、十穀絶ちを行い、粟、椎の実などを食ベミイラ化を促し、即身成仏を果す修験道である。江戸中期鳥海山、月山などの修験者が天台宗・真言宗の唱える「衆生と仏は一体なり」の思想に基づき流行した、この上人は越後蒲原の人で、当地に来たり、筑波山中でも修行し、又歌人でもあった。村人から尊敬され文化12年(1815)10月21日入定し、入定後7日まで鐘を叩いていたという。江戸期この地方では珍しい即身仏の墓である。
 助郷一揆道標  
   この道標は文化元年(1804年)十月に起きた牛久助郷一揆から十九年後の文政六年(1823年)に牛久宿問屋の飯嶋治左衛門によって建てられたものです。
 治左衛門は、一揆当時、牛久宿で「麻屋」という問屋を営み、宿場総代を務めて、一揆勢に激しい打ちこわしを受けましたが、江戸伝馬町で獄死した一揆指導者の勇七、吉重郎、兵右衛門の戒名を刻んで、このように供養碑を兼ねた道標をここに建てました。
 飯倉の道標  
   道標は道に迷わぬためのみちしるべであり、古くは道の神に芝を供えて祈ったという。近世の道路整備に伴い、かつ石仏・石神と共に増加していったので、近世の道標は石造ですべて信仰と関係している。この天保4年道標は、出羽3山への信仰、西国・秩父・坂東への巡礼の安全を祈り、道標を兼ねたものである。この他に安永8年の井戸上、文政11年の君島、天保4年の柏根、安政5年の羽賀戸など近世の諸道標が町域に存在する。
 旧大室の道祖神と曙のグミ  
   「曙のグミ」があるこの場所は、大室の室崎神社の馬場先で、道祖神が祀られている。道祖神はさえのかみであり、村内に邪霊悪鬼の立入らぬようサエギル神である。そこは、村境または道路の辻であり、男根とか巨人の大草鞋とか入ろうとする悪霊を恐怖させる物を置く。ここでは、無縁の石塔やグミの木があるのは、死霊の恐怖で悪霊に対抗しようとしたのである。グミの木は焼けば死者の焼ける臭いがするという連想からの呪術であろう。
 北向道祖神  
   この神様は、往古より道中の安全と健康並びに子供の成長、良緑を願う庶民の素朴な信仰を集めている道祖神である。縁日は毎月6日で特に腰痛、肩こりに効験あリともっぱらの評判である。近在は元より遠方から多数の参拝者が訪れ賑っている。患部快癒の返礼に真新しい木槌や小石が沢山奉納されている。本尊が北向きに置かれている事から北向道祖神といい、地元の主婦3名が交代で社の管理に当たっている。
 大久保意吉記念碑  
   この碑は阿見地区とその周辺地方における畜産の導入と振興並びに村政に多大な貢献をした大久保意吉を顕彰して昭和29年に建立されたものである。彼は明治32年下総の御料牧場から牡馬を購入し種付場を設置し、馬の繁殖に努め、又大正2年北海道から緬羊を導入してこの地の有畜農業の振興に寄与し、産馬功労賞を授与された。
 碑文は元参議院議員元馬政局長官岸良一の筆による。この地の畜産史を知る上で貴重である。
 中山倉夫碑  
   中山倉夫は旧君原村塙の素封家に元治元年(1864)出生、その生涯を地方自治と教育事業に捧げ、明治44年県会議員に当選した。
 彼の大事業は、明治10年以来分立していた君原、追原、飯倉各小学校を明治41年君原尋常高等小学校として統合整備した事である。統合問題で、村民は、晴明川を挟んで15年にわたり紛糾し、この間追原蔵福寺を本校に利用した事は有名である。
 大正8年4月県議、村長在籍中、54歳の若さで病没した。
 湯原一胸像  
   湯原一は、明治36年に阿見村長となり、昭和4年まで7期に亘リ村長を勤め、阿見村農会・同産業組合等を設立してその長を勤めるなど、近代の阿見村建設の指導者であった。また、村是実行運動での模範村指定や納税成績優良としての表彰を受け、更に、困難な阿見・若栗の2小学校の統合を成功させた。それらの功績でこの胸像が建てられた。
 なお、小学校の校門はかつての霞ヶ浦海軍航空隊正門の移築で、当時を偲ぶ遺構である。
 吉田貞蔵碑  
   吉田貞蔵は、明治22年34歳で初代舟島村村長に就任、以来28年にわたリ村政に尽くした。この間、教育・治水・衛生・経済等の面で大なる功績を挙げ藍綬褒章を授与された。大正7年、旧舟島小学校隣地の八坂神社に彰徳碑(蒙額を茨城県知事力石雄一郎、選文は宮寺美成)が建立された。昭和20年6月10日の空襲では、職員児童の被害はなかったが、碑の上部が欠ける程のすさまじさであった。この碑の近傍に湯原ト峩の句碑が建てられている。
   
   
(碑・塚・墓所・道標)
 金毘羅神社と 鈴木村開基碑  大 日 塚  木食上人の墓  助郷一揆道標
 飯倉の道標  旧大室の道祖神 と曙のグミ  北向道祖神  大久保意吉 記念碑
 中山倉夫碑  湯原一胸像  吉田貞蔵碑