(近代史跡・記念館)
 下村千秋記念館  阿 見 原 跡  飛行船ツェッペリン 伯号飛来の地  
       
 下村千秋記念館  
    明治26年9月4日、朝日村(現阿見町)大字荒川本郷に、下村常松・いわの次男として生まれる。画才にも恵まれ、少年時代は画家を志していたという。
 同41年、土浦中学校(現土浦一高)へ進み、往復20kmの道を5年間徒歩で通学した。 昭和に入ると、社会小説に境地をひらき、いわゆる“ルンペン小説”で流行作家となる。その一方、農村の窮状と農民の哀歓を描いた農民小説の傑作を多数発表し、高い評価を得ている。彼の真価はむしろ、綿密な取材に基づいた農民小説にあるといわれる。昭和に入ると、いわゆる“ルンペン小説”で流行作家となる。
 その一方、農村の窮状と農民の哀歓を描いた農民小説の傑作を多数発表し、高い評価を得ている。綿密な取材に基づいた農民小説にあるといわれる.昭和30年1月31日、肝炎のため入院していた立川共済病院で死去、享年63歳だった。
 阿 見 原 跡  
   阿見原は大字阿見の西南方の原野で近世では周辺8ヶ村が肥料用の刈草、薪や萱の採取を行なう一方で阿見村は原野の開拓を進め紛争が絶えず、貞享2年(1685)幕府の裁許により解決した。明治10年津田出が国から払い下げを受け、隣接原野と共に開拓に着手したが失敗し、同29年周辺8名の地主に譲渡したところ、地主と耕作者の間で農民騒動が起こった。大正10年海軍飛行場となったが、戦後再び開拓、いま開田の記念碑が建っている。
 飛行船ツェッペリン伯号飛来の地  
   昭和4年8月19日ドイツの巨大飛行船ツェッペリン伯号がはるばるベルリンからシベリアを横断し、当時東洋一と言われたここ霞ヶ浦海軍航空隊に着陸した。4日間の滞在中に約40万人が見物、上野〜土浦間に臨時列車を運行し、阿見原は人の波で埋まったという。
 飛行船の全長は235m格納庫は、第1次大戦の戦利品である押収格納庫を利用した。又、昭和6年にはリンドバーク夫妻も飛来し、当時霞ヶ浦は世界的な空港であった。